今週の新社会

沖縄「復帰」から50年
問われる「本土」のありよう
私の「復帰」50年宣言

2022/05/25
首相官邸前の元山仁志郎さん(5月9日)

    沖縄が本土「復帰」して50年。玉城デニー沖縄県知事は5月10日、「建議書」を携え岸田文雄首相と会談したが、沖縄の思いは届かない。沖縄の苦悩に寄り添い、本土での沖縄の闘いを続けている毛利孝雄さんに「復帰50年」 の思いを投稿してもらった。

    元山さんハンスト 

   5月15日、沖縄は復帰50年を迎えた。 「基地問題は今も変わらず、復帰を祝える状況にない」、元山仁士郎さん(辺野古県民投票の会元代表・30歳)が、首相官邸前でハンストに入ると聞いたのは、その前日のことだった。 

    沖縄の、それも若い世代にここまでさせて、本当にすまない、そんな思いで心ばかりのカンパを届けた。 

   2日後、国交省前に移動した元山さんから、「体調に気をつけ頑張ります」とメールが届いた。彼の目に、復帰50年の「本土」の情景はどう映ったか。 あらためて、私にとって沖縄とは何か、を考える。

                                             ◆ ◆ ◆ ◆ 

    復帰40年前後の2年間、沖縄で暮らし戦争体験者の話を聞いた。 

    脳裏に焼き付いているのは、宮里洋子さんと小嶺正雄さん。宮里さんは座間味島で、小嶺さんは渡嘉敷島で「集団自決」を生き延びた。お2人の話から、「本土」の戦争観の曖昧さを考えたい。

    宮里洋子さんの沖縄戦 

    宮里さんとは、普天間ゲートの抗議行動で親しくなった。「死ぬのは嫌!」と避難壕から逃げ出し、無傷で生き延びた。母・姉・妹にはカミソリ傷が残る。切りつけたのは教師だった母。徹底した皇民化教育が、わが子に手をかけさせた。 

    印象に残るのは、親しい友人とも泊まりがけの旅行には一度も行っていないという話。たびたび戦場の悪夢にうなされ、叫んでは飛び起きるからだ。沖縄戦PTSDを研究する蟻塚亮二医師との出会いから、自らの体験を語れるようになった。沖縄戦からは半世紀の歳月を経てのことだ。

小嶺正雄さんの沖縄戦 

     小嶺さんとの出会いも偶然だった。島旅の途中で声をかけられ、「この島は、昔、大変なことがあったよー」という言葉で、渡嘉敷島に通うようになった家族と布で結び合い、自決を決意したが、雨で2個の手榴弾は不発で、阿鼻叫喚の地獄を生き延びた。 

     印象に残るのは、彼が一度も「集団自決」という言葉を使わなかったことだ。「大変なことが起こったんです」としぼり出すように語った。 

     研究者の間では、「集団自決」「強制集団死」いずれの用語を使うか議論がある。いずれの言葉でも表現しつくせない実相を、小嶺さんの言葉から想像するほかない。証言の前後は不眠と寝汗に悩まされ、体力を消耗する。 

     お2人は他界されたが、逡巡するときは心の中で相談することにしている。お2人の存在、それが私にとっての沖縄なのだと思う。

軍事化の中で問われる戦争観 

   
いま日本政府は、辺野古新基地強行に加え、南西諸島への自衛隊配備、敵基地攻撃能力、核兵器の日米共同運用など、一層の軍事化と9条改憲を公言するに到っている。 

     沖縄基地問題への「本土」側の無関心さは、軍隊に対する認識の決定的な甘さにある。「命どぅ宝」「軍隊は住民を守らない」など沖縄戦から導かれた戦争観に対し、「私たちが享受している平和と繁栄は、戦没者の皆さまの尊い命と、苦難の上に築かれたもの」(歴代首相の戦没者追悼式式辞)という、戦死を美化する「本土」の戦争観の何と曖昧なことか。 

   「アジア2千万人、国内310万人の犠牲の中から獲得した平和憲法を、簡単に手放していいのですか」。宮里洋子さん、小嶺正雄さんの叫びが聞こえる。 

    復帰50年、問われているのは「本土」のありようなのだ。

                      沖縄大学地域研究所特別研究員 毛利 孝雄