鎌田 慧 連載コラム
「沈思実行」

菊池事件と差別  第222回

2024/12/18
  袴田事件の無罪判決の後、冤罪への関心が高まっている。冤罪は松川事件のような政治的なフレームアップ(でっち上げ)以外は、たった1人が被害を受けているので、社会的な関心は低く、司法制度の犠牲者として闇に葬られてきた。 

  袴田巌さんは逮捕から58年経って、無実が認められた。狭山事件の石川一雄さんは61年が過ぎても、まだ殺人犯の汚名を雪すすいでいない。 

  冤罪のまま死刑執行されたなん人かのうち、59年が経ってようやく遺族が再審請求したのが、「菊池事件」である。被害者がハンセン病患者だったので、差別の真っ只中にいて社会的に立ち上がれなかった。差別の重層性が幾重にも絡みついている。 

  熊本のハンセン病施設「菊池恵楓園」に収容されるのに抵抗していたFさんは、収容を勧奨していた役場職員宅に、ダイナマイトが投げつけられた事件の犯人にされ、否認しながらも10年の刑を受けた。しかし、園内の代用拘置所だったので脱走できた。 

  その脱走中に、同人物の役場職員が全身二十数カ所に刺傷を受けて死亡する事件が発生する。それもFさんの犯行とされ、警察はFさんを捜索、発見、逃亡する背後からピストルを発射して倒した。飛びかからなかったのは、ハンセン病を恐れてのことだった。 

  恵楓園内の「特別法廷」は消毒液の臭いが立ち込め、出張してきた検事や裁判官は、白い予防服、ゴム手袋、ゴム長靴の扮装、証拠物件は火箸で摘つまんでの裁判だった。菊池事件再審弁護団発行のパンフレット『菊池事件』(百円)に、ある教誨師の言葉がある。「どうか許して欲しい、1人の人間として扱わなかったことを…私たちはボロ雑巾の様に彼を扱ったのです」  

  裁判は非公開だった。憲法に保障された公開原則の「裁判を受ける権利」は奪われたままだった。 

  銃撃された痛みのまま取調べが行われ、供述書の署名も警察官が行った。証拠も親戚の供述も捏造だった。再審請求中に、福岡刑務所に移送され、すぐに処刑された。いま、遺族がようやく、前面に出て再審を訴えるようになった。