鎌田 慧 連載コラム
「沈思実行」

協同と協働 第42回

2021/02/16
 世紀的なコロナ禍は、安倍とその亜流の菅首相が、いかに人間にたいする愛がなく不遜、つまりは自己勝手で無能、緊急時にはまったく役立たない政治家だったことを暴露した。

 それは彼ら個人のせいばかりではなく、自民党支配が永すぎた末路の腐敗と頽廃の土壌が、つくりだした類型なのだ。

 かたや米国のトランプ前大統領も、信じられないほどの傲慢と無知を世界に振りまき、40万人以上の新型コロナウイルスの犠牲者を発生させた。

 この厄災の時代にもとめられていたのは、相互理解と相互扶助の精神だった。それが世界的に余りにもすくなかった。長い間、世界は大企業の獰猛な収奪とその価値観に拝脆(はいき)する人びとをつくりだした。その危機的状況をマスコミは、甘いオブラートで包(くる)んで明確に示すことをしなかった。

 人びとが寄り合い、語り合うことが禁じられているこの間に、社会に対する関心と人間同士の共感による運動が停滞してしまった。が、この不幸な時代に「労働者協同組合法」が成立したのは、決して偶然ではない。

 ごく少数の大企業とその経営者が、天文学的な利益を貪る矛盾とコロナウイルスの蔓延はおなじ時代のものだ。一方の集中と一方の拡散。一方の繁栄と一方の貧困。あまりにも極端な格差と差別。この世界の極端な分断をどのように修復するのか。

 労働者が協同して企業をつくる。おなじ理想で助け合う。一緒に働き、話しあって決定する。なにを、どのようにしてつくり、利益をあげ、どのように分けるか。社会的に必要な仕事を支えよう。適材適所、能力を皆のために活かす。

 「協同労働」は自主生産、共同経営とも呼ばれ、労働争議のあとにできた。わたしも十代の時に経験している。ペトリカメラ、スタンダード製靴、国労音威子府分会。スペイン・モンドラン。

 経験は世界にいっぱいある。資本家のためではない生活。それは可能だ。