鎌田 慧 連載コラム
「沈思実行」

ある女性の生き方 第50回

2021/04/20
 先日、「三里塚に生きる 石井紀子さん追悼の集い」が東京でひらかれた。「成田空港」は1978年、滑走路一本だけで開港した、といわれている。が、反対闘争はいまだに続き、計画通りに空港は完成していない。

 67歳で事故死した紀子さんは、東京の学生だったときに、ウーマンリブ運動の一員として支援にはいり、22歳で農民と結婚した。

 中年になって離婚したあとも、現地に残って野菜を籠にいれて消費者に届ける「ワンパック」に参加していた。わたしも近所の人たちと、何十年も新鮮な野菜を受け取っていた。

 三里塚闘争は、家族総ぐるみで農民が建設を実力阻止、多数の負傷者ばかりか死者もだした。現代史上の大闘争で、包囲、突入、占拠の方針によって、管制塔を占拠した大闘争である。それは暴力的な、間答無用の「開発正義」に、身体を張って農地を守る主張だった。

 若い農民たちの間で早くから研究されていた有機農業の実践の中から、「土地」を決して商品などとは考えない、いのちとつながる「公共的なもの」としての「土」とする思想が生まれた。

 紀子さんには、三里塚の母たちが目標だった。「義母たちのように土に生まれて、土に生き、土に死ぬ百姓にならねば」、「土と闘争に根を張って生きた」とも述懐(じゅっかい)するさわやかな一生だった。

 一緒に運動してきて、やはり一人で土を耕している柳川秀夫は、追悼文に次のように書いている。

 「植物を人間が収穫してしまい、エサになる有機物がなくなると、循環は断ち切れてしまう。そこで植物の代役に人間がなって、有機物を運び入れる。従って循環に人間も組み込まれる。百姓と土との共生でもある。人間社会も自然の仕組みの大循環の中に組み込まれることは必要であろう」。

 三里塚闘争のなかで、有機農業や循環農業が実験的にはじめられ、定着した。

 「追悼の集い」のパンフレットに、石井紀子さんが送っていたパックの野菜の写真が掲載されている。エンジン、大根、ネギ、馬鈴薯など十二、三点。美しい収穫物だ。