鎌田 慧 連載コラム
「沈思実行」

脱原発が新産業を発展させる  第108回

2022/07/20
  前号にも書いた最高裁の「福島原発事故に国の責任なし」は、とにかく原発を動かしたい、電力会社と自民党政治への忖度決定で、法と正義を放棄した最低裁そのものだった。 

  それでも4人の裁判官のうち、ひとりが責任あり、としたのは運動への励ましとなっている。その半月前、札幌地裁は住民側の泊原発3基すべての運転差し止め請求を認めた。再稼働反対の住民の主張が通ったのだ。 

  これに引き換え、最高裁の判断は「現実の地震・津波は想定よりはるかに大規模で、防波堤を設置しても事故は防げなかった。」というもので、天災だったら仕方がない、とする露骨な企業擁護だった。

  自然と人間の生活への想いがない。危険なものはつくらない。利益のために自然といのちを祖末にしない。それが人間社会と法を尊重するものの最低のモラルであろう。 

  札幌地裁が5月末に言い渡したのは、原発側が周辺住民にたいして、事故による人格権侵害のおそれがない、と立証する責任があるとした明晰な判断だった。 

  「当該原子力発電所が自然現象に対する安全性を欠くものであり、それによって予想される事故により被害を受ける恐れがあると認められる範囲の周辺住民について、人格権侵害の恐れがあることが事実上推定される」 

  住民が運転差し止めを訴えたのは、福島事故後の2011年11月。訴えられた北海道電力は、敷地地盤、地震、津波、火山にたいする安全性、防災計画、これらのすべての安全性を証明できなかった。いまなお原子力規制委員会で審査中。その結論がだされる前に、裁判所が再稼働は認められない、と先に判断した。 

  莫大な投資をした原発を、再稼働させて利益を上げたい。それが電力会社の欲望だ。しかし、それと人間のいのちとは交換できない。国策だったとはいえ、投資の失敗だったのだ。 

  その失敗は住民に危険を押しつけるのではなく、自分たちで解決するしかない。国と自治体は住民のいのちと健康に責任がある。脱原発。再生エネルギーへ。それが産業振興にむかうあらたな道だ。