鎌田 慧 連載コラム
「沈思実行」

戦争が遺した心の傷跡  第122回

2022/11/02
  友人からパンフレットが送られてきた。A4版30ページほど。なにげなく読みはじめて、圧倒された。「私が背負った昭和の業」。筆者は野崎忠郎氏。82歳、未知の人物である。 

  よく考えぬかれた端正な文章で、感嘆させられた。戦争で人格が破壊された父親の話だ。これだけ突き放して書けるようになるまでの、筆者の葛藤の重さを感じさせられた。 

  いま公然と「台湾有事=日本有事」といわれるようになった。敵基地攻撃など勇ましい議論がはじまった。が、それを否定する戦争のトラウマを語る運動もようやくはじまった。若いひとたちに読んでほしい。 

  野崎さんの父親は医大卒業後、軍医学校にすすみ陸軍病院に配属された。そのあと中国(満州)平房( ピンファン)の、細菌戦で知られている731部隊に配属された。敗戦の一年前、南方戦線に移動させられた。だから、ソ連軍の捕虜となり、シベリアに送られずにすんだ。 

  父親と対比させながら書かれているのが、戦後、ラーゲリに7年間抑留、帰国命令が出される前夜、縊い死し を遂げた同僚の軍医・涸沢十三夫(とみお)である。涸沢は罪の意識のせいか、日本に帰る(ダモイ)を拒否して自死した。 

  父親は長野県の山村で開業医となった。酒盛りをやっては、細菌の培養、人体実験、細菌爆弾の投下、捕虜の射殺・焼却、施設の爆破を声高に語っていた。野崎さんは襖越しにそれを聞いた。 

  しかし、あるときから、細菌部隊の話をピタリとやめた。帝銀事件が起きてからだ。銀行員たちに、一挙に毒薬を飲ませた鮮やかな手口は、旧隊員の犯行を思わせた。しかし、捜査は突然GHQ(連合国軍総司令部)の命令で中止になり、軍医たちに箝かん口こう令が敷かれた。細菌研究のすべてが米軍に移されていた。 

  731部隊の闇と帝銀事件の闇が重なり、父親の心のなかの闇が恐怖に転じた。野崎さんが父親の戦争責任を問うと、「国の命令は絶対だった」と語った。酒と薬物びたり。そして自殺。それが戦後の結末だった。(「PTSDの日本兵と家族の交流館・手記集」所収)。