鎌田 慧 連載コラム
「沈思実行」

語り続けなければならない  第123回

2022/11/09
  プーチンのウクライナ攻略は、戦線膠着の現状から核使用の恐怖まで引きだされるようになった。 

  戦争はそれ以前に国内反対派の大弾圧をともなう。日露戦争に反対した幸徳秋水などは「天皇暗殺」をでっちあげられて1908(明治43)年、12人が死刑執行、12人が無期懲役など重刑に処された。 

  その13年あと、関東大震災発生。大杉栄、伊藤野枝、橘宗一や亀戸での社会主義者10名、さらに在日朝鮮人6千人以上が虐殺された。 

  1941年の真珠湾攻撃前、すでに社会主義者や共産主義者は獄中にあった。政治犯が解放されたのは、敗戦直後の8月ではなく、2カ月もたった10月10日だった。その半年前、宮城刑務所で獄死した市川正一の遺体は、行方不明になっていた。市川は『日本共産党闘争小史』(国民文庫)の著者として知られている。

 
  と、このような政治的な虐殺の歴史を想い起こさせたのは、最近送られてきた郡山吉江の『しかし語らねばならない』(共和国刊)を読んだからだ。郡山は「ニコヨン詩人」として知られている。ニコヨンは日給240円の日雇い労働者を指している。没後39年たって、かつての活動家の遺稿を集めた本が出されたので、わたしは目をみはった。

  この本で、市川正一の遺体は身元引受人がないとして、東北大学病院のアルコール水槽に保存されていた、と書かれている。解剖台上の遺体の胸にかけられてあった、木札の留置番号と名前で判った、と朝鮮人卒業生が教えてくれたのだ。体重はわずか26・3㌔。頭頂部が鋭利な刃物で切られ、うすい赤みをおび、縦横に白い線が交差していたという。 

  ひとりの政治犯の悲惨な最期だった。それに 沖縄や国内での戦災の死者や中国、朝鮮、東南アジアの死者の膨大な数の遺体。それとウクライナでの戦死者や巻き添えになった市民の死者が重なる。 

  いま、岸田内閣のメンバーに、戦争の死者の悲惨をどれだけ想像できるのか。戦争にむかう前夜のプーチン政権に、批判的なジャーナリストの暗殺があった。戦争は語り続けなければならない。