鎌田 慧 連載コラム
「沈思実行」

親子三代の反原発(上)  第241回

2025/05/21
  5 月の連休明けに、青森県下北半島をまわった。わたしは本州最北端、鉞(まさかり)形の半島を「下北核半島」と呼んでいる。たしかに沖縄は軍事基地の密集地帯で、住民に被害を与え続けているが、ここは米軍のベトナム戦争に利用された、沖縄の嘉手納基地に次ぐ巨大な三沢基地ばかりか、自衛隊の陸海空の基地と原発、核廃棄物などの核施設の密集地帯である。 
  
  「さようなら原発」運動の有志たちの間で、それを見学しようという企画がもちあがったので、わたしの古くからの友人、「核のゴミから未来を守る青森県民の会」事務局の伊藤和子さんを案内人に、18人ほどで半島を一周した。 

  ちょうど桜が散ったばかり、まだ初春の華やかさが漂っている。常緑樹のヒバ林の間に、もみじの若葉が明るく燃えたっていた。最初に本州最北端、大間崎にあるMOX燃料専用炉・大間原発のすぐそばの「あさこハウス」を訪問した。 

  かつては海岸に近い道からすぐ入れたのだが、周りの土地がすべて電源開発に買収され、熊谷あさ子さんの畑と住宅へ行くには、県道から有刺鉄線を張り巡らしたフェンスの間の長い道を行くしかない。 

  道の入り口には見張り小屋があって、電源開発に雇われたガードマンが一日中、出入りする人を監視している。フェンスに押しつぶされそうな狭い道を歩くだけで気が滅入ってくる。あさ子さんは電源開発の社長が二代にわたって説得に来たが、クビを縦に振らなかった。 

  「わい(われ)は海と畑があれば食っていける。海と畑がなくなると食っていけない」。揺るぎない哲学だった。まわりの土地は全部買収されても、ここだけは買収されなかった。それで電源開発は、炉心の予定地を変更する設計に変えた。 

  申請した設計図を変更したのは、蓋(けだ)し原発史上はじめてであろう。あさ子さんはわたしが取材した後、2006年、畑にいたツツガムシに刺されて死亡した。 

  そのあとを北海道で暮らしていた長女の敦子さんが継ぎ、そして、その娘の奈々さんが「ここを社会活動の希望の場所にしたい」と継ぐ決意だ。