鎌田 慧 連載コラム
「沈思実行」

死刑賛美の美談 第80回

2021/12/01
 東京新聞のコラムにも書いたのだが、こだわっている。 横浜地裁が3人の入院患者に消毒液を点滴に混入させ殺害した、という事件だ。元看護師に無期懲役の判決をだした。 

 ところが、求刑は死刑だったので、各紙ともに、遺族の「納得いかない」との声を大きく扱った。これは惰性だ。肉親が殺された遺族にとっては、いわば当然の声かもしれない。 

 しかし、裁判官と裁判員が熟慮討議の末、死刑を回避した苦渋の判決に、影響力の強いマスコミが「納得いかない」「死刑にしろ」との批判の声をかぶせるのは、時代に逆行する野蛮な風習だ。これから、死刑制度とどのように向き合うかの決意がない。

 オウム真理教の犯罪までは、日本の死刑制度にも反対の声が強かった。が、オウム真理教の犯罪の長年の恐怖が、上川陽子法務大臣( 当時)の大量処刑、在任中16人の処刑が、死刑を当然とさせた。 

 処刑の前夜は、安倍晋三首相(当時)などと議員宿舎内でパーティを開催、グラスを挙げている映像が流された。世界的に死刑執行の歯止めがかかっている時代なのに、まったく恥を感じることのない政治家たちがふえている。 

 死刑とは人が人を殺す犯罪を、国家が認める風習である。国家がいのちを支配し、人殺しを命じるのは、戦争の論理でもある。それを支えるのはその国の権力者と文化で、死刑は市民社会の中に許されている戦争の文化だ。 

 「主君の仇を討て」、「親の仇は討つ」。忠臣蔵や敵討ちの講談は、主人への忠義、親孝行の美談として大衆を感激させてきた。 

 法相任期中に大量処刑を実施した鳩山邦夫13人(安倍、福田内閣)、上川陽子16人(安倍内閣)。はたして正義の味方の気分だったのかどうか。 

 2011年当時の江田五月法相(菅直人内閣)は、「慎重に、慎重に考えている」といって、ついに死刑執行命令書に署名せず、232日間の任期を無執行で過ごした。死刑廃止は世論との闘いであり、政治の責任である。