鎌田 慧 連載コラム
「沈思実行」

最後の「新聞小僧」 第83回

2021/12/22
 「明日から入院するよ」と電話がきた。「一週間で退院する」。「退院したら電話ちょうだい、見舞いに行くよ」と電話を切った。が、一週間たっても電話がこない。 

  携帯に三回かけても応答なし。やや不安になっているときわたしのスマホに、彼からの着信記録があった。 

  退院したんだな、と安堵して電話をかけたが、応答なし。と、彼の名前の着信、妻から「亡くなった」との声だった。 

  入院した時にはもう手をつけられなかった。翌日の夕方絶命。末期の肝臓がんで三年生きた。彼は家族と離れて一人で暮らしていた。家族葬儀を終えてから、妻が彼のスマホを点検、何度かわたしに連絡していたのだ。

  北岡和義は、「読売新聞」の記者だった。日本最初の心臓移植手術、札幌医大の和田寿郎の「心臓手術事件」で活躍したが、退職して社会党の横路孝弘衆議院議員の秘書を務め、38歳で渡米。ロサンゼルス邦字新聞記者、日本人向けテレビ局の創設など、夢を追い続けた異色のジャーナリストだった。65歳で日本に帰ってきた。 他界してから一ヶ月半ほどして、保阪正康、後藤正治、牧久などの物書き仲間や編集者、新聞記者など、ときどき会っては雑談していたメンバーが集まった。 

  鎌田、保阪、後藤の頭文字をとって「カホゴの会」と名付け、幹事役を引き受けていたのが北岡だった。思い出話のなかで、だれかが「新聞小僧」といった。それが彼にぴったりだった。新聞記者、それも社会部記者を天職と考えている熱血漢、その彼がなぜ記者をやめたのか、聞いておかなかったのが残念だ。 

  ピースボートでアマゾン川を逆のぼり、中流のマナウスに着岸したとき、「鎌田さん、お客さんです」と言われて驚いた。北岡だった。ロスから出張で来ていて、わたしが乗船していることを知ったのだった。 「『死ぬまで書き続けたい』気持ちはある。こんな面白い時代に死に逝くのは余りにも惜しい。それにしても今年は酷い年だったなぁ。」 

  息を引き取る5日前の「静岡新聞」連載エッセイだった。