鎌田 慧 連載コラム
「沈思実行」

ロシアの戦争を利用する輩やから
(2) 第94回

2022/04/06
  ゼレンスキー・ウクライナ大統領のオンライン国会演説のあとを受けて、参議院の山東昭子議長が演技たっぷり、「閣下が先頭に立ち、また貴国の人びとが命をも顧みず、祖国のために戦っている姿を拝見して、その勇気に感動しております」と語った。 

  あたかもサッカー観戦コメントのようで、人の死の悲惨に想いが及ばない。 

  3月23日付けのこの欄で「ロシアの戦争を利用する輩」と書いた。戦争を好機とばかり、防衛予算の増大と防衛力強化に結びつける政治家を、日本国憲法は想定していない。

  戦争が非人間的なのは、死者の数が、千、万の単位で数えられ、ひとりの死の悲しみなど見むきもされなくなることだ。そして、勝つためにさらに多く人間を殺す残酷な兵器が待望されるようになる。 

  しかし、ひとりの人間の死は、家族や親しいものにとっては、それがたったひとりであったにしても、生きているかぎりの深い悲しみとなる。事故や災害などの不慮の死は、家族や親しいものにとっての無念となり、そのあと、一生を左右することになったりする。 

  ところが戦争は、権力者の決断によってはじめられる死のゲームであり、死は政治的な死である。その見返りに戦死者にたいして、国家が勲章を授(さず)けたりするが、負けがこんでくるとそんなセレモニーは消滅する。巻き込まれた市民の死は、ムダ死にである。 

  中国大陸で、東南アジアの島々で、食糧もなく斃へい死し した日本兵の遺体は朽ち果てた。その運命はわずか77年前の現実だった。 

  プーチンのウクライナ侵略戦争は、マリウポリやキエフ市包囲作戦となっている。これは第二次世界大戦中、独ソ戦争でナチスによる2年にわたる「レニングラード包囲作戦」を想い起こさせる。 

  このとき、60万人から100万人が死亡した、といわれている。食糧が欠乏して人肉が食べられた。プーチンは歴史教育でよく知られている、ヒトラーの作戦とおなじことを実施している。 

  歴史は繰り返されるのか。