鎌田 慧 連載コラム
「沈思実行」

死刑のない社会へ 第111回

2022/08/10
  夕刊を手にして驚愕させられた。秋葉原殺傷事件の加藤智大が、死刑執行されたのだ。まだ39歳。その若さが不憫だ。咄嗟に思い浮かんだのは、永山則夫のことだった。 

  永山の死刑執行は48歳。犯行時は19歳だった、その後、29年間は生かされていた。本来ならば、事件当時は未成年だったから、その時の基準でいえば、死刑はありえなかった。 

  高裁判決は無期懲役だった。最高裁が破棄、差し戻し、「永山基準」をつくって、むりやり死刑にもちこんだ。国家は冷酷だ。 

  加藤が秋葉原の人ごみにトラックで突っ込んだのは、2008年。14年しかたっていない。死刑というもっとも重大な、人の命を奪う殺人行為なのに、いつ執行するかは、法務大臣の胸先三寸。 

  上川陽子のように在任期間が1年2カ月たらずなのに、15人も処刑台に送りこんだ法務大臣もいる。まるで命のバーゲンセールだった。 

  今回の処刑は、安倍元首相が襲撃された直後だった。まるでわかりやすい見せしめだ。死刑執行は犯罪の抑止力として考えられている。 

  4人目の死刑執行にハンをついた古川禎久法務大臣は、「身勝手な動機によって尊い人命が奪われる卑劣な事件は断じて許されない」と力んでみせた。 

  19歳。永山則夫の犯罪は、高度経済成長期に地方から出てきた、「転職少年」の連続犯罪事件。少年時代の貧困とネグレクトがひどかった。   

  永山と加藤も筆者とおなじ青森県の出身者。加藤は「ハケン切り」時代の象徴だ。ひとの切り捨て自由な「新自由主義社会」が、若者たちの膨大な不安層を形成している。古川がいう「身勝手な動機」などを醸成するのは、過酷な格差社会だ。

  競争に駆り立てられ、落伍して犯罪に走ると、死刑がまっている。死刑が抑止力になるかといえば、反対に、どうせ死刑なら、と多くを殺傷したりする。自殺はイヤだから、殺人を犯して死刑になろう、とするものもあらわれる。 

  そんな冷酷な社会ではなく、能力に応じて、自分なりにはたらき、安心して暮らせる社会。そんな社会を創るための運動が問われている。