鎌田 慧 連載コラム
「沈思実行」

永山則夫の復活(上)  第173回

2023/12/06
  『永山則夫小説集成』(全2巻)が発刊された(「共和国」刊)。永山自身、自己を「少年ルンペンプロレタリアート」と規定していた。かつて中卒年少労働者は「金の卵」とされて重宝されていたが、いまは虚飾を剥いで、ズバリ「非正規労働者」。高度成長の1960年代から、どん底景気の2020年代。永山文学復活の時代となった。 

  永山は最初の小説『木橋』を「新日本文学」賞に応募して、入選している(83年2月)。わたしも選考委員だったが、獄中から応募する、との連絡は受けていた。それで選評に「小説としてみた場合、きわめて稚拙な作品である、もう二、三度書き直すとより鮮明になるだろう。」と書いたのは「八百長」にした「拘置所の中にいて、少年時代を想いだしたにしても、それが余りにも悲惨なものであることが、読むものに二重の痛撃を与える」とも書いた。

  高校同期の白取清三郎が面会して推敲をすすめ、次作品などを集め、田村義也装丁で立風書房から刊行した。その帯文には、「『金の卵』がなぜ『連続射殺魔』になったか。彼は悲惨な逃走をやめて踏みとどまり、己の体験を凝視して『プロレタリアートの運命』として描きだすことに成功した」と讃えた。 

  永山の悲劇は、彼がたまたま射撃して殺害した2人のガードマンと2人の運転手が、労働者であって、かれの犯罪は「仲間殺し」だった、と気づいたことだった。獄中結婚した「ミミ」と白取とは、印税を賠償金の一部にあてるために、被害者の家をまわって歩いた。が、わたしが知っている段階では、2家族が拒否していた。 

  小説に先行する『無知の涙』『歌を忘れたカナリア』などの文章もあったが、小説こそが、永山の自己発見の道だった。白取と東京拘置所に面会にいったり、裁判を傍聴したり、地方にいった時には、獄中へ慰めに絵ハガキを送ったりしていた。「私の今度の事件を自分が、何故やらなければならなかったかと問うその時、それの理由とする決定的動因がみつけられないのでもある」(「無知の涙」)。