鎌田 慧 連載コラム
「沈思実行」

永山則夫の復活(中)  第174回

2023/12/13
 永山則夫は「金の卵」のひとりだった。東京オリンピックが終った翌年。1965年3月、中学校を卒業するやいなや、青森駅から「集団就職列車」に詰め込まれ、東京・渋谷駅前のフルーツパーラに到着した。 

 「金の卵」とは、将来、金になるという意味ではない。ズバリ、金を生みだす卵である。地方から招集された15歳、年少労働者として、男女の卵たちは、産業戦士の出征のように、故郷の駅頭で見送られ、集団で都会に配給された。 

  病気、労災、精神的な負担、心身ともに傷ついて帰郷した者も多い。少年少女たちは「転職」は非行の始まり、「脱落者」として、呪縛されていた。永山もまた転職、非行、さらに自殺未遂、典型的な「転職少年」だった。犯罪者になったのは、たまたま侵入した横須賀米軍基地内の住宅で、ピストルを窃取したからだった。

  「(自分は)殺人者であり、残虐残酷且つ非道なる犯罪である。絶対に許すべきではない」(『無知の涙』。上京から4年、4人を殺害、逮捕されてから5カ月たって、ノートに書きつけた。「育った家庭が一番何とも言いようのない不運の原因である」。 

  極端な貧困家庭だった。父親の不在、ネグレクトの母親、DV常習の次兄。中学校では長欠児童。が、配達する新聞は読んでいた。だから、まったくの無知ではなかった。獄中で本を読み、ノートに膨大な記述をはじめる。永山の不幸は、殺人者になったあと、はじめて自分と社会について考えるようになったことだ。 

 「知ったとき/確実な運さだめ命が眼前にあり/それを語り残す友もない/無知が現在の自己に変えた」 

  21歳のときに書いた詩の一節である。独房での学習が自己回復の作業だった。97年8月のある朝、突然の処刑がそれを中断させた。 

  二審判決は無期懲役だった。が、東京高検が上告、死刑台へ引きずり上げた。一審第一回公判で、永山は「初めから殺すつもりはなかった。自分としては、ただ逃げたい一心から、撃ってしまっただけです」と陳述していた。逃げつづけていた19歳にとって、社会はあまりにもきびしかった。