鎌田 慧 連載コラム
「沈思実行」

過労死を考える(下)  第194回

2024/05/15
  労働災害や職業病、さらには過労死など、おカネを稼ぐために働いていのちを落としたり、心身を破壊されたりするほど、無念なことはない。 

  塀の外に発生する公害もそうだが、それらは経営者が安全対策費を惜しみ、労働者の健康といのちとを大切に考えていなかったからだ。労働者や市民の基本的人権を尊重して、対策を講じていたなら、発生することのない被害者なのだ。 

  学生のとき、アルバイトで働いていた夜、スクーターで転倒、救急車で運ばれ、2カ月ほど入院したことがある。自分では運転ミスと思っていた。が、入院してまもなく、病室に警察官がやってきて、道路事情を聞かれた。でも自損事故だと思い込んでいたし、転倒は恥ずかしことだったので、余り考えたくなかった。道路には問題がなかった、と答えていた。警察はあまり好きでなかったのが影響した。 

  しかし、その後、昼間は道路工事中だったので、その後始末に問題があったのでは、と気がついた。それでも自主経営でつくられた職場だったので、労災保険に加入し、入院費などは支給されて助かった。休業手当ももらった記憶がある。 

 「生活のために働き、生活するために死ぬ」。たいがい労災は、会社側の経費削減や労働過重の疲労による。過労自殺などは、パワハラもふくめて企業側の支配強化による。利益至上主義の犠牲である。人権を尊重する、穏やかな、人間主義的な企業なら、職業病や過労死、過労自殺など起こりうるはずがない。 

  90年代に『家族が自殺に追い込まれるとき』(講談社)という本を出した。このとき、川人博弁護士などの過労死、過労自殺110番運動がはじまっていた。 

  労災、職業病、過労死、そして公害。人間のいのちと健康を抑圧して利益を増すのは犯罪だ。これら基本的人権の擁護に取り組まない労働組合は、労働組合の自己否定である。 

  不当労働行為は、恥ずべき行為として企業名が公表される。それと同じように、緩慢なる殺人行為としての過労死や過労自殺は、企業名を社会化すべきだ。