鎌田 慧 連載コラム
「沈思実行」

詩と画で戦争を伝える(上)  第212回

2024/10/02
  戦争体験をどう伝えるか。これまでも重大な課題だった。が、これからますます重要になる。テレビで自民党の総裁選挙にむけての候補者たちの主張を見ていても、軍備増強に疑問を持つものはいない。それどころかウルトラ・高市早苗氏のように「非核三原則」にたいして「『持ちこませず』などと言っていたら、日本の安全は守れない」などと放言。 

  有力候補とされている軍事オタクの石破茂氏も同調、河野太郎氏などは「原潜所有」までをいう。過去の「反原発」の主張はなんだったのか。二代目、三代目、四代目候補たちは、庶民の戦争体験の悲惨をまったく受け継いでいない。自分こそが軍備増強の担い手だと競い合っている。

  「戦争体験は特異な事実をリアリズムで語ることだけではなく、自分に突き刺さった事実とどう向き合い続け、意味を汲み取っていくかだ」( 鶴見俊輔氏『戦後日本の思想』(久野収、藤田省三との鼎ていだ ん 談 )。彼には戦時中、留学先のアメリカで「敵国人」として強制収容所に入れられていた痛烈な体験がある。 

  戦時中、関東軍歩兵部隊で、戦車に「肉迫攻撃」「肉薄攻撃」という「体当たり」攻撃の一員とされていた四國五郎は、敗戦となって命拾い。その後、ソ連軍の捕虜となって48年まで抑留生活を送った。彼が描き続けたのが「殺されたわが子」などの母子像だった(四國光『反戦平和の詩画人 四國五郎』藤原書店)。 

  帰国先の広島では弟は原爆死していた。峠三吉と『原爆詩集』を作成し、辻詩運動、壁詩運動を始めた。バンクシーのような神出鬼没の芸術運動だった。峠三吉が詩を書き、四國が絵を描いた。「もう死んでいる母親へ/子どもがよちよちと水をはこんで口に入れている/一時間あと通ったときも/まだやっている八月六日舟入町」 

  原爆のあと、ベトナム戦争、そしていま、ガザ。これまでどれだけの母親が死んだ子を抱えて、泣き崩れただろうか。 

  「私は怒りの出発点を、もはやふたたびひらかなくなった子供の瞼まぶたの上にそそがれる母の涙の熱さにおく」(四國五郎)