鎌田 慧 連載コラム
「沈思実行」

ミナマタの教訓 第74回

2021/10/20
 映画「MINAMATA」が評判を呼んでいる。アメリカ映画の名優ジョニー・デップが、写真で水俣病を世界に知らしめたユージン・スミスを演じて、水俣病をあらたな視点から描いた。

 ミナマタは気候危機に至った、世界の環境破壊にたいする重い警告である。

 9月に発刊された「水俣フォーラム」42号に、2004年最高裁で国と熊本県の賠償責任を確定させた「関西訴訟」の岩本夏義・原告団団長の手記が掲載されている。

 これを読んで「豊穣の海」の不知火海に、大量の水銀を放流して汚染し、多大な死者を発生させたチッソの犯罪性とそれを規制しなかった政府にあらたな怒りを感じさせられた。

 住民の身体と生活をめちゃくちゃにした「公害」(私害)が、日本列島に蔓延していた時代は「許されざる時代」だった。しかし、被害者は全体からみれば少数のひとたちであり、たいがいのひとたちはその犠牲の上に成立していた「高度成長」の利益を享受していた。

 岩本さんは水俣と対岸の天草との間にある小島、獅子島で生まれ育った。小学校を卒業して父親の小舟に乗った。釣り上げた鯛はすぐに舟のいけすに一杯になった。実家の下に置いてある籠に運ぶために、なんども往復するほどの豊漁だった。

 ところが戦前から、変な形の魚が釣れだし、ぼつぼつ漁獲量が減りだした、という。不知火海の汚染はそのころからだったのだ。

 1950年のある日、見渡すかぎりの海上一面に、真っ白い大小無数の魚が浮かんでいた。タモで掬(すく)い続けて小舟に一杯になると魚市場に卸してまたもどる、そんな生活があった。

 父親がけいれんを繰り返し、精神不安状態で死亡。岩本さんも体調不良で漁をやめて、水俣のチッソの下請け「水俣化学」に入った。チッソが捨てた活性炭の残土から水銀を取りだす仕事に従事していた。

 「工場の中、こんな作業で泥水を流す場所は、いつもコロコロ光る水銀の粒だらけだった」(岩本夏義さんの手記「水俣病を思ひ」、この項は次回に続く)