鎌田 慧 連載コラム
「沈思実行」

底辺労働者の記録  第85回

2022/01/19
  たまたま、なにかの用事で上野駅に降りたったとき、わたしはたいがいアメ横にむかう。 

  広小路口、ガード下にある「あゝ上野駅」の歌碑をたしかめる。健在かどうか。井沢八郎のヒット曲で彼は同郷だが、縁はない。 

  鉄製。高さ2・6メートル、横1・8メートルの大きな歌碑で、蒸気機関車を正面から描いた勇壮な絵の横に幟を立てて歩く引率者と少年、少女たちの群像。 

  どこか出征兵士たちを思わせなくもないが、「集団就職」の記念。「上野は おいらの 心の駅だ」の歌詞が刻まれている。そのなかの「くじけちゃならない 人生が あの日ここから始まった」。人生の応援歌、といわれて大ヒットした。年少労働者たちを励ました歌だったことはまちがいない。 

  昨年出版された基佐江里『中卒「集団就職者」それぞれの春夏秋冬』(蕗書房)は、720ページにもおよぶ浩こうかん瀚な一書である。著者は満州開拓移民の子として生まれ、与論島で育ち、1961年、集団就職の1人として東京・荒川区の工場で働きはじめる。 

  その体験から与論島出身者を中心に、50人ほどの集団就職者を追いかけ、その後の人生を聞き取った。その貴重な記録だが、「紙碑」といっても過言ではない。 

  集団就職者は「金の卵」と言われたが、それは経営者にとっての言い方だった。その象徴が永山則夫だった。彼にたいして憎悪ばかりではなく、「同情」が強かったのは、犯罪に逸れたのは認められないにしても、60年代後半、全共闘運動などがあって貧困と抵抗への共感が強かったことも背景にある。 

  わたしの中学同級生たちも、数人でおなじ東京の工場に働きに出てきたが、「集団就職」は団塊の世代をさしていうようだ。著者の基さんは与論島から3泊4日の船旅で神戸に着き、そこから東京まで東海道線で10時間の旅だった。 

  金の卵、出稼ぎ。東北は3K労働者の供給地だった。が、九州の離島もまたそうだった。与論島民の大牟田・三井三池炭鉱への大量移住、満州移民。辺境と底辺の民衆の記録として、貴重な一書だ